「新日本歩く道紀行100選シリーズ」を通年で歩く人たちのクラブ「歩きんぐくらぶ」



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羽州街道金山路

戦国時代には秋田領と山形領の要害の地として、金山には城が築かれておりました。
江戸時代、東北の二大街道、奥州街道と重なる桑折宿を始まりとし、油川まで続く羽州街道の途中、秋田領と新庄領の境をなす宿場町として栄え、明治以降は木材(金山杉)で財をなしてきました。金山の町は往時の面影を残す商家や金山杉を活かした木造住宅の佇まいと、清流の水路網が相まった落ち着いた街並みを形成しており、旧羽州街道の雰囲気を残す峠越えから峠越えの道筋をたどり、一時の懐かしい風景、どこかで見た風景を味わえます。
番号:106002
◆コースの概要/距離:10km、所要時間:210分、高低差:50m 
◆コースの起点/地名:上台峠、最寄駅:-、最寄のバス停:山交バス県立病院-金山線 上台、最寄からの距離:0.5km 
◆コースの終点/地名:日当松並木、最寄駅:-、最寄のバス停:金山路線バス中田線 日当、最寄からの距離:0.5km 
◆コースの環境・設備/トイレ:有、休憩所:有、水・食料:有、ガイド等:有、看板・標識:有、安全対策:無、近隣の宿泊:有 
◆推奨季節/春・夏・秋
◆その他/- 
◆コースに関する問い合わせ先/金山町 環境整備課、電話番号:0233-52-2111





起点 上台バス停
2km (30分)
1 上台峠
新庄から金山に抜ける旧羽州街道の峠道である。明治11年、北国を旅した英国の旅行家イサベラバード女史は「日本奥地紀行」の中で、上台峠からみた金山の町を「ロマンチックな雰囲気の場所」と記している。現在、地域による江戸時代の旧道、明治時代の新道と街道の保全活動が行われている。集落の入口には熊野神社があり、ブナやヒノキの巨木が聳える鎮守の森を形成しており、神社から通ずる旧道、新道を巡る散策路も整備されている。
2km (40分)
2 金山宿
金山町の中心部、江戸時代に羽州街道の駅として秋田領と新庄領の境をなした宿場町で、七日町、十日町の地名が残っているようにこの地方には珍しく商人の町として発達した。現在も往時の面影を残す家並みが残っており、この雰囲気を求めて訪ねる人も多い。現在、町では特産の杉材を使ったまちづくりを行っており、古い建物の再活用や空間の整備など、何時か見たことがある町、懐かしい風景を感じる町であり、散策路が整備されている。
0.1km (5分)
3 大堰
町中心部を流れる用水路で、堰が造られたのは安土桃山時代まで遡る。水清き金山のシンボルとして堰の周辺には遊歩道や公園が整備され、町民や旅人の憩の場となっている。公園には無料休憩所やトイレが整備され、また、堰には春から晩秋に掛けて鯉が放流されている。
1km (20分)
4 楯山(金山城跡)
楯山は戦国時代には、出羽の国の羽前(山形)と羽後(秋田)を隔てる重要な要害の地として、山の上にはお城(金山城)が築かれていた。現在、山には神社が7ヶ所ほど点在し、神社を巡りながら杉木立の道が続く歴史を感じる風情ある場所である。10年ほど前から地域による里山の保全活動が行われるようになり、桜の植樹や散策路の整備、山の中腹から町を見下ろせる展望広場の整備と、新たな町の景観スポットとなっている。

0.1km (5分)
5 きごころ橋
清流金山川に架かる平成16年に完成した屋根付き木造の歩道橋である。季節を問わず安全で快適な通行ができるよう、更には金山の自然と景観が調和する施設として、特産の金山杉と金山職人の技が活かされた橋である。木の温もりと人と人との交流の架け橋になることを願って、「きごころ橋」と命名され、橋からは金山川上流部に聳える霊峰神室山を望むことが出来る。
0.1km (5分)
6 戊申戦争三本松戦跡
慶応4年、戊申戦争において新政府軍の薩長軍と奥羽越列藩同盟軍仙台藩は熾烈な戦いを繰り広げ、森合三本松付近は激しい戦いの場となった。仙台藩第六大隊長の梁川播磨頼親はこの地で薩長の兵に襲撃されて壮烈な戦死を遂げた。時に37歳。仙台藩は梁川播磨以下33名の戦死者を出した。梁川播磨らが戦死した場所は「戊辰戦争三本松戦跡」として戦争の悲劇を後世に伝える場として護られており、今も全国から訪ねる人が多い。
1.5km (20分)
7 森合峠
関ヶ原合戦後、秋田藩領への主要通路は険しい神室の山々を越えていた有屋峠から、金山町を南北に縦断する中田越えの羽州街道に改められた。諸大名の参勤交代に際し、供揃えを従え上り下りした峠越えの難儀を知ることが出来る古道である。沿道にはここを通った文人、歌人の歌碑もあり、杉木立の中の落ち着いた路となっている。
0.5km (10分)
終点 日当の松並木
江戸時代、全国的に主要街道の整備が進められた。新庄藩領内の街道には松を植え並木道が造られ、一里塚を築き、その頂上には目印の木が植えられて旅人の利便性が図られた。日当の一里塚には、左に松、右に桜(秋田県側から見て)が植えられていた。このあたりの松並木は、古い羽州街道の面影を残す数少ない場所となっている。