「新日本歩く道紀行100選シリーズ」を通年で歩く人たちのクラブ「歩きんぐくらぶ」



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磐余の道

桜井から飛鳥へかけての土地は古くは磐余(いわれ)と呼ばれていました。磐余地の西にあった大津皇子の挽歌(ばんか)で名高い磐余池は、現在ではその遺構が東池尻町で発掘されたことで場所がほぼ確定されています。磐余は奈良盆地から飛鳥への入口で、桜井駅のすぐ南には磐余山や芸能発祥の地といわれている土舞台、多くの古墳もあり、のどかな丘陵の散策を楽しめる地域です。
番号:129005
◆コースの概要/距離:6.7km、所要時間:150分、高低差:-m 
◆コースの起点/地名:桜井駅、最寄駅:JR・近鉄 桜井駅、最寄のバス停:-、最寄からの距離:0km 
◆コースの終点/地名:石舞台古墳、最寄駅:-、最寄のバス停:明日香周遊線 石舞台、最寄からの距離:6.7km 
◆コースの環境・設備/トイレ:有、休憩所:無、水・食料:有、ガイド等:有、看板・標識:有、安全対策:無、近隣の宿泊:有 
◆推奨季節/- 
◆その他/- 
◆コースに関する問い合わせ先/桜井市役所 観光まちづくり課、電話番号:0744-42-9111





起点 桜井駅
0.75km (10分)
1 若桜神社 桜の井
若桜部朝臣や阿部朝臣の祖神といわれる伊波我加利命(いわがかりのみこと)を祭神とし、『大和志』には「在桜井谷邑 今称白山権現」とあり『延喜式』神名帳城上郡の若桜神社に比定されますが、大字池ノ内の稚桜神社とする説もあります。 書記に履中天皇が皇后と磐余の市磯池(いちしのいけ)で遊宴中に、桜の花が盃に落ちた事を天皇は珍しい事と喜ばれ、この桜のあった御所の掖上の桜を清水湧き出る泉のそばに植えられ、宮の名前も磐余稚櫻宮にされたといい、桜井という名はここからきているといわれています。
0.35km (-分)
2 石寸山口神社
南面して鎮座する旧村社の式内大社で祭神は大山祇神(おおやまつみ)。
大和志(享保21年刊・1736年)では双槻(なみつき)神社と呼ばれている事から、用明天皇の磐余池辺双槻(いわれ いけべの なみつきのみや)宮の跡地とする説がある一方それを否定し当社は元、石寸山の水上にあったので水利に関係していた石寸水分社とする説(大和志科)もありますが近年は桜井市の木材業界の守護神として知られています。     
0.4km (15分)
3 土舞台
「日本書紀」の推古天皇20年の記事に、時の摂政聖徳太子に、「又百済人味摩之(みまし)帰化けり。曰く呉(くれ)に学びて、伎楽(くれがく)の舞を得たり」といふ。則ち桜井に安置(はべ)らしめて、少年を集へて、伎楽の舞を習わしむ。是に真野首弟子(まののおびとでし)と新漢済文(いまきのあやひとさいもん)ふたりの人、習いて、その舞を伝ふ」とあります。 
-km (20分)
4 安倍文殊院
安倍文殊院は俗に「安倍の文殊さん」として親しまれ、切戸文殊(京都府)・亀岡文殊(山形県)とともに、日本三文殊のひとつに数えらる華厳宗の別格本山です。もともと崇敬寺(安倍寺)という名前で、左大臣(今の首相にあたる)で大化の改新の中枢として諸政策を実行した、安倍倉梯麻呂が創建したといわれています。本尊の文殊菩薩騎獅像が宋様式の傑作(獅子は桃山時代の後補)で2013年に4体の脇侍像と共に国宝に指定されている他、縁結びの神様として知られる白山堂の社殿は、室町時代後期に建立された流造柿葺の建物で、重要文化財に指定されています。
0.5km (15分)
5 安倍寺跡
東大寺要録(12世紀初期の東大寺関係の記録)によれば崇敬寺(そうきょうじ)とも言われ大化の改新の時の左大臣、安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の建立と記録されています。しかし平安時代末期には衰退し鎌倉時代の火災により現在の安倍文殊院の地に移されたと伝えられています。
2.1km (20分)
6 山田寺跡
大化改新に天智天皇側について、同族の蘇我氏を滅ぼした蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわまろ)の発願により641年(舒明天皇13年)に建て始めたとされている寺です。石川麻呂は、入鹿殺害のクーデタに加わり、右大臣に任ぜられましたが、649年(大化5)、反乱の疑いをかけられて、この寺で自害しました。しかし、その後、疑いは晴れ、皇室の援助で寺の造営は続けられ649年に完成しました。しかし中世以降は衰微し、明治時代初期の廃仏毀釈の際に廃寺となりましたが、明治25年(1892年)に小寺院として再興されています。 
1.4km (10分)
7 飛鳥資料館
日本人の心のふるさと「飛鳥」の歴史と文化を紹介する資料館です。飛鳥の文化財を調査・研究する奈良文化財研究所の展示施設で、昭和50(1975)年に開設されました。遺跡発掘資料、歴史資料等。
0.5km (20分)
8 万葉文化館
日本の古代文化に関する調査・研究機能、万葉に関する文化の振興を図る展示機能(万葉ミュージアム)、万葉集に関する情報の収集提供を行う図書・情報サービス機能(万葉図書・情報室)を併せ持つとともに、事前の発掘調査で明らかにされた文化財についても、その保存に努めるとともに、復原展示などで創造的に活用することにより、遺跡と共存する総合文化施設をめざしています。
-km (15分)
9 飛鳥寺
安居院ともいわれる日本最古の寺院の一つ。飛烏寺は、崇峻天皇元年(588)に蘇我馬子が発願し推古天皇4年(596)に創建された、わが国最初の本格的大寺院です。発掘調査(昭和31年)の結果では、束西約200m、南北約300mの寺域をもち、その西南に塔を中心として三金堂を置く大寺院であったことが判明しています。造営には百済の工人が当り、伽藍配置や瓦の文様などにも、当時の朝鮮の仏教文化の影響が色濃く出ています。
0.6km (10分)
10 伝飛鳥板蓋宮跡
1959年からの発掘調査により、多くの掘立柱建物、掘立柱塀、石組溝、石敷遺構などが検出された。その遺構の変遷は、大きく三時期に分類され、それぞれ、飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮であったことから、支配体制の変革や王権の存在形態、その歴史的変遷を考えるうえで重要である。また、飛鳥板蓋宮は、中大兄皇子・中臣鎌足が大化改新を断行し、蘇我入鹿を倒したといわれる場所でもある。現在は地表上に当時の遺構を復元、整備されている。
0.1km (15分)
終点 石舞台古墳
日本を代表する巨大な横穴式石室です。1辺55mの方墳で西南方向に開口しています。墳丘上部は江戸時代以前からむき出しで元々の形状は不明です。 被葬者は蘇我馬子と言われています。