「新日本歩く道紀行100選シリーズ」を通年で歩く人たちのクラブ「歩きんぐくらぶ」



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土佐塩の道

天正から慶長の年代(400年くらい前)には、今の香南市の海浜は一大製塩地であって、赤岡町では塩市が開かれていたようです。土佐塩の道は塩の生産地と奥地を結ぶ重要な産業道で、塩に限らず生活必需物資や林産物なども運搬され相互往来の往還道でした。 塩は庶民生活に不可欠のものであったため、塩の道の名称が付けられたようです。当時の最大の遅搬機関として馬(牛)が使われ、馬の安全を祈願する馬頭観音などが建てられている他、見渡し地蔵や丁石など多くの史跡が残っています。
番号:139002
◆コースの概要/距離:31.6km、所要時間:645分、高低差:450m ◆コースの起点/地名:赤岡塩市跡、最寄駅:土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線 あかおか駅、最寄のバス停:-、最寄からの距離:0.2km ◆コースの終点/地名:香美市物部町山崎塩登り口、最寄駅:-、最寄のバス停:JRバス大栃線 大栃、最寄からの距離:2.6km ◆コースの環境・設備/トイレ:有、休憩所:有、水・食料:有、ガイド等:有、看板・標識:有、安全対策:有、近隣の宿泊:有 ◆推奨季節/- ◆その他/- ◆コースに関する問い合わせ先/土佐塩の道保存会、電話番号:0887-58-3702


googleマップ


起点 赤岡塩市跡
予楽寺の山門前に塩市がたち、塩とのぶつぶつ交換を商っていたと言われています。遠くは香美市物部町大栃、岡の内、笹方面から木炭、椎茸、薪、雁皮等が交換されたといいます。現在「塩屋」という餅屋に当時の名残りが屋号として残っています。
0.25km (5分)
1 山城屋と水切り瓦
その昔、香南の商都と言われた赤岡で廻船問屋をしていたといわれる商家の建物で、漆喰の壁に多くの水切り瓦が施された珍しいつくりをしています。赤岡の古い町並みを象徴する建物でもあります。
0.43km (8分)
2 一本松と遍路の腰掛け石
昔、1里ごとに松を植えて里塚としていました。「松」は「待つ」につながり、宿場を意味します。この松のすぐそばには、大日寺に向かう遍路石(道標)があり、それに沿っておいてあるのが遍路の腰掛け石です。長方形の丸みを帯びた石は、お遍路さんの休み石として腰が掛けられるようになっています。
0.16km (3分)
3 陶器製の灯明台
この灯明台は日袋(灯りを入れる部分)が陶器でつくられていて大変珍しいものです。この地域には煉瓦製作所や鍛冶屋集団があったとされています。
1.56km (12分)
4 宝鏡寺跡
香宗我部氏の菩提寺として天正13年頃建立。寺伝によりますと香宗我部親泰(1543年~1593年、長宗我部元親(1539~1599年)の弟で(香宗我部親秀の養子)が曹洞宗(禅宗の一派)瑞応寺(土佐郡江ノ口村・現高知市)の末寺として開山。現在は寺域の西南に観音堂があります。 寺跡は南北2段になっており、南には後世並べたと考えられる五輪塔14基とその部分の石塔(卵塔含む)が並んでいます。 
3.6km (52分)
5 安岡家住宅(国指定重要文化財)
安岡家住宅は文化4年(1807年)時の当主が郷士株を譲り受けた後、代々郷士職を勤めた家柄で、末裔には勤王の志士、覚之助・嘉助兄弟などがいた。母屋をはじめとする建物群が、旧郷士屋敷の雰囲気を色濃くとどめている。 
1.2km (10分)
6 山北両烈士の碑
勤王の志士、安岡覚之助と安岡嘉助兄弟を顕彰するために大正十五年(1926)に建立されたもので、題字は田中光顕の書。
  兄覚之助は、戊辰戦争に小軍官として参戦したが、若松城攻防戦で流弾に当たって三十四歳で戦死した。
弟嘉助は、参政吉田東洋を暗殺して長州に逃れ、その後吉村寅太郎の天誅組の挙兵に参加したが、囚われて京都六角獄舎にて二十九歳で処刑された。安岡覚之助、嘉助兄弟の功績を伝えている。
2.9km (38分)
7 岩鍋の鞍かけ岩
この岩に馬の鞍をかけて、そばの川で馬の体を洗い休ませました。
1.3km (27分)
8 中西川馬頭観音堂
中西川井ノ上にあり、堂の中の石板に七頭の馬の絵が刻まれています。
0.1km (3分)
9 西川花公園
住民が休耕田の無償貸与を受けて整備。約70アールに菜の花と200本の桜と600本の桃が植えられており、シーズンには多くの人でにぎわいます。
0.3km (9分)
10 君子方神社
昔は王子村付近にあったが氏子の争いで西川村に移され、その後塩の峰に移されたとあり、西川村でも神領があり影の祭りをしていた。この社が君子方神社のことであり塩の神様を祭っていました。
2.7km (53分)
11 文代峠店屋跡
海と山を結ぶ、相互往来の「往還道」であった時代に利用されていた「お店」跡地。
0.5km (9分)
12 弘法大師修行の岩を望む
弘法大師が座って修行をした岩で、上にくぼみがあり、そこにたまった水をつげるといびらが治り、いびらの神様としても近頃目までお参りがあったそうです。※いびらとは皮膚病で、大豆半分くらいの大きさのいほべか゜くっついた状態のものです。
0.4km (6分)
13 お大師岩
弘法大師が修業で歩いていたら、突然転んできた岩を受け止めた時にできた手形が残っていると、地元の人たちに語り継がれています。
2.7km (55分)
14 久保川見渡し地蔵
昔の川には橋がなく飛び石で川を渡っていました。川を渡る人や馬などの安全を常に見守り、また、増水や自己で亡くなられた人の御霊を弔い、地域を鎮め、往来する旅人の安全を祈願するために河岸つかくに建てられましたが道路工事のため、現在の所に移されました。
1.1km (30分)
15 寺跡の井戸
寺跡の井戸である証拠として、このような井戸は普通の民家には無く、特別な建物で会ったという説に基づき、その後調査を行ったところ、一段上の植林地の南側に僧侶の墓地を確認することができてました。深さは14m、昔からいくら日照りが続いても水の枯れたことのない井戸として言い伝えられており、今でも水をたたえています。
1.8km (44分)
16 黒見休憩所 (塩の道桜公園)
この地はかつて天水田(雨水だけで稲作を行う田)でしたが、檜40年生となっていたのを、隣地共に購入し、合わせた1haの公園を作りました。季節ごとにきれいな花、手造り小屋やトイレがあり、塩の道歩きには重宝されています。
1.2km (32分)
17 源太坂
昔、槇山に源太という歌の上手な若者がいました。人妻である於雪と一緒になるため、心中を誓い冥土の土産に晴れ着を着せるべく、ある夜是にを盗むために老人夫婦を殺しました。翌日つかまり、奉行所までの道中のこの坂道で、かごの中から綺麗なうたごえを於雪に届けようとこの坂道からうたったそうです。その後打ち首となり20歳という若狭で生涯を終えたと伝えられています。
0.1km (4分)
18 庄谷相の屋敷丁石
丁石とは目的地までの距離を刻んだ石の道しるべのこと。また、昭和南海地震で、山の草の中に倒れていたこの丁石を起こして欲しいと地主から依頼があり、平成14年3月に地元有志8名により立て直し作業が行われました。これがきっかけとなり「土佐塩の道」再興へとつながりました。
1.4km (40分)
19 庄谷相休憩所
庄谷相にある公民館。 トイレ休憩ができる。すぐそばに川と桜の木があり、春には情緒ある風景を楽しむことができます。
1.2km (30分)
20 拓の馬頭観音
大変眺めの良い場所にあります。馬頭観音は、昔の荷物運搬の主役である牛馬の安全と亡くなった牛馬の弔いのため方々に建てられました。また、観音様は往来する人々にとっても、参道を歩く寂しさや不安を取り除き安心して歩ける見守りの役目もはたしていました。
2.4km (65分)
21 臼杵の店屋跡
当初建築年代は不明ですが、1860年に改築されたと言われています。大変高い技術で建築されていて見物客が遠くから塩の道を歩いて見に来たと言われています。大変立派な建物だったため、往来する役人も好んで泊まったり頻繁に出入りされたと言われています。
2.1km (49分)
22 大栃馬頭観音・葛橋記念碑
ダム工事のため現在、湖底となっている所に祀られていた馬頭観音が集められています。700年ほど前、難工事であった葛橋建設の際に尼法師が人柱として男の身代わりとなった乳飲み子を生き埋めにしました。橋は無事完成しましたが、尼法師は乳飲み子の位牌をしっかりと抱き息絶えていました。
0.3km (6分)
23 奥物部ふれあいプラザ
お土産屋さんやレストランが近くにある。
1km (30分)
24 塩峯公士方神社
創建の年代は明らかではないが、昔、別府の神主惣之一が、香我美町の石船の神社から、一方の籠に塩、片方の籠に神体を入れてこの峠に来た時に、オオクが折れてご神体が落ち、動かなくなり、転がりついた所に鎮座。これが塩峯公士方神社であると言われています。大栃の背後、塩が峯に鎮座する「鎮山郷総鎮守」。
0.6km (15分)
終点 香美市物部町山崎塩登り口
香美市物部町山崎地区は、国道195号線沿いの十数戸の小さい集落です。その昔、塩が転んできて止まったことから、塩の名がつけられたと言われています。600m上った所に塩峯公士方神社があります。