「新日本歩く道紀行100選シリーズ」を通年で歩く人たちのクラブ「歩きんぐくらぶ」



地域を選択する

井めぐりコース

本山町市街地は吉野川に向かう緩い傾斜地にあわせて形成されており、坂道の街路とそれに沿って流れる疎水が印象的な景観を形成しています。疎水の多くは、山内家に仕え数々の治水で名声を挙げた“野中兼山”の遺構である本山上井(うわゆ)・下井(したゆ)から水が導かれています。本来、農業用水として江戸期に開削された上井・下井ですが、その下流部では、現在も水田を潤しながら、同時に市街地の景観に潤いを与えている歴史的遺産です。また、コースは平坦な道と心地よい坂道で、健康づくりに最適です。
番号:139013
◆コースの概要/距離:4km、所要時間:62分、高低差:-m
◆コースの起点/地名:大原富枝文学館、最寄駅:-、最寄のバス停:JR大杉駅交通バス田井行 本山町プラチナセンター前、最寄からの距離:0.08km
◆コースの終点/地名:大原富枝文学館、最寄駅:-、最寄のバス停:JR大杉駅交通バス田井行 本山町プラチナセンター前、最寄からの距離:0.08km
◆コースの環境・設備/トイレ:有、休憩所:有、水・食料:有、ガイド等:有、看板・標識:無、安全対策:有、近隣の宿泊:有
◆推奨季節/春・夏・秋
◆その他/-
◆コースに関する問い合わせ先/もとやまフットパス、電話番号:0887-76-2518





起点 大原富枝文学館
本山町出身の作家、大原富枝の作品とその生涯を紹介。代表作「婉という女」の資料をはじめ、直筆原稿など160点を展示。著書の心を現わした茶室、安履庵も併設。元簡易裁判所を改装した建物は、アールデコ様式で外観も美しい。
0.05km (1分)
1 寺坂
本山町市街地に存在する坂道で、東光寺の隣に存在する事から“寺坂”という名称で親しまれている。勾配は急だが登り切ると、達成感を得る事ができます。
0.03km (2分)
2 東光寺
建立日は不明。市街地唯一のお寺。境内には四国八十八カ所霊場を建立し、八十八カ所の寺の名を持つ地蔵があります。その地蔵にお参りをする事で、老若男女お遍路を体験する事ができます。十五夜に観月会を開催しました。
0.17km (4分)
3 土居屋敷跡(上街公園)
土居屋敷跡は戦国時代に本山地方を治めた本山氏の土居(館)であった。その後は野中兼山の屋敷となった。参勤交代に土佐街道(北街道)が用いられるようになると藩主の宿泊所に使用された。この土居屋敷を中心に「土居下町」と呼ばれる町場が形成されていた。明治になって建物は取り壊され、跡地は桜の公園として整備されている。
0.42km (6分)
4 上の坊
本山南学寮跡。野中兼山が儒学者山崎闇斎を招いて、この場所にあった古寺で土佐南学を講究したといわれています。兼山は禅学より儒学に転向し、勉学に励み南学(海南朱子学)といわれるまでにその学問を発展させました。
0.03km (2分)
5 井
“井”とは町内疎水(水路)の事であり、住民たちは「水路=井」と呼ぶ。本山町市街地には「上井・下井(うわゆ・したゆ)」と呼ばれる井が2種類流れている井は建設当時、水田へ水を供給するためのものであり、現在でも多くの水田を潤している。
0.5km (15分)
6 十二所神社
十二所神社の創建日時は不詳。当初、長徳寺鎮守三社の一つで、白髪神社、若一王子宮と並ぶ神社でした。後の寛永15年(1638)野中兼山によって現在の場所に移転再建され本山郷の総鎮守とされており、秋の大祭では町内の若者による神輿担ぎと神楽が披露されます。
1.1km (15分)
7 ロケ坂
もとやまフットパス実行委員により命名。坂道であるが、開けたスペースとなっており、また町の市街地を一望できるため、ロケ地の様な雰囲気を味わえます。
0.4km (6分)
8 本山旧大橋・本山新大橋
本山町中心部と北部(北岸)の山間部を結ぶ橋です。旧大橋は歩行者のみの通行となっており、写真撮影のポイント。新大橋は道路が通っており、車の通行も可能です。また、歩道はレンガ畳を施しています。橋の下をゆっくりと流れる吉野川は、美しい景観を作り出しています。
0.1km (2分)
9 帰全山公園
帰全山は吉野川北岸に位置する標高430mの山です。野中家累代の墓地や山崎闇斎の帰全山記や延享2年(1745)創建の野中陣神社、昭和44年(1969)に建設の野中兼山の銅像があります。また、日露戦争に従軍した村出身の戦病者を埋葬している場所であり、明治38年に公園として整備ました。
0.4km (4分)
10 野中順の墓
順は野中兼山の長女である。祖母秋田夫人と同じ囲いの中に眠る。秋田夫人の墓の後方の墓碑は順のもの。順は4歳で早死、本山帰全山に埋葬されたことが野中氏系譜に記されている。
0.1km (2分)
11 秋田夫人の墓
慶安4年(1651)野中兼山は母秋田夫人の逝去に遭い儒礼により土葬で埋葬しました。埋葬の地として帰全山を選び、1千人の夫役と2ヶ月の日数を投じて墓地を造成、埋葬後は墓地の横に喪屋が建てられ、母没後の3年間をここで喪に服しています。帰全山の名は儒家山崎闇斎が選んだといわれ、その地形から雁山と呼ばれていました。
0km (0分)
12 あほう掘り
野中兼山の事をよく思わない者が工事を断念した所 難工事だった所を「あほう堀」と呼びました。今の技術なら機械もあるし発破もあるが昔は、掘ってみないと岩盤の硬さも解らない。断念した所も有ったと想像できます。ここを堀で繋げば大雨でも氾濫せずに川岸の土地を田畑に使う計画であったのではないでしょうか。
0.1km (1分)
13 沈下橋
本山町中心部と北岸(北山集落)を結ぶ橋。橋の下を流れる吉野川は美しい景観を創り出している。
0.6km (5分)
終点 大原富枝文学館