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長崎原爆遺構めぐりコース
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分に、アメリカ軍が投下した原子爆弾。。たった一発の兵器により当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊しました。その中でも原爆のすさまじい威力を伝える国の登録記念物、旧城山国民学校校舎、浦上天主堂旧鐘楼、旧長崎医科大学門柱、山王神社二の鳥居を巡る原爆遺構めぐりです。
番号:142010

◆コースの概要/距離:4.5km、所要時間:120分、高低差:-m ◆コースの起点/地名:平和(原爆)公園、最寄駅:路面電車赤迫行 松山町、最寄のバス停:-、最寄からの距離:0.24km ◆コースの終点/地名:平和(原爆)公園、最寄駅:路面電車赤迫行 松山町、最寄のバス停:-、最寄からの距離:0.24km ◆コースの環境・設備/トイレ:有、休憩所:有、水・食料:有、ガイド等:有、看板・標識:有、安全対策:有、近隣の宿泊:有 ◆推奨季節/春・夏・秋・冬 ◆その他/- ◆コースに関する問い合わせ先/長崎歩こう会 会長 岩永恒雄、電話番号:095-878-0671
起点 平和公園(原爆公園)
原爆落下中心地公園北側、小高い丘にある平和公園は、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界平和への願いを込めてつくられた公園です。

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1 山王神社二の鳥居
原爆落下地点からから南に900mほどの場所に一本足鳥居というのがある。
爆風により2つの柱の内1本は東海したが、残った1本はねじり曲り、奇跡的なバランスで半分だけ残ったというものだ。これは山王神社の4つあった鳥居のうちの2番目。3番目と4番目は完全に崩壊した。

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2 旧長崎医科大学門柱
爆心地から南東約700mに位置する。現在の長崎大学の前身である第五高等中学校医学部が現在地に移転したのは明治24年(1891)年で、原爆被爆時には長崎医科大学、附属医学専門部、附属薬学専門部があった。建築物76棟のうち65棟が木造建築で、爆風により倒壊し、その後の火災で焼失した。学長以下、教職員、学生など約900名が死亡した。二本の門柱のうち、正面向かって左側の門柱には「長﨑醫科大學」の銘があり、正面向かって右側の門柱には「長﨑醫科大學附屬藥學専門部」の銘がある。

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3 浦上天主堂旧鐘楼
浦上天主堂は一部を残し倒壊し、当日天主堂内にいた2人の神父と数十人の信徒は天主堂の下敷きとなり死亡した。天主堂の双塔にあった鐘楼のうち、南側のものが天主堂内に落下し、北側のものが天主堂の北側の崖を滑り落ち、天主堂の北側を流れる小川に落ちた。

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4 旧城山国民学校校舎
被爆当時には児童は校舎にいなかったが、推定在籍児童数約1500人のうち、自宅等で死亡した児童は約1400人といわれている。児童が登校していないため、城山国民学校には三菱兵器製作所の給与課が疎開しており、校舎にいたのはその給与課の職員など158人で、そのうち138人が死亡した。校舎は北と南に分かれており、南校舎は3階から崩れ落ち、北校舎は屋上に大きな穴があいた。

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