「新日本歩く道紀行100選シリーズ」を通年で歩く人たちのクラブ「歩きんぐくらぶ」



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広瀬清水街道

室町時代後期、戦国大名尼子氏は、安来市広瀬町の富田城を政治の本拠地として、尼子の全盛期を迎えていた。その支配は山陰・山陽11か国に及び富田城下からの街道は四方八方に通じるようになっていました。
江戸時代になると政治の中心地は松江に移されたが、寛文6年(1666)に松江藩の支藩として広瀬藩が成立。広瀬藩主の参勤交代によって整備された道が広瀬清水街道となっています。
 街道沿いには出雲・伯耆地方で厚く信仰されてきた清水寺参りや嵩(だけ)神社参りの道として、人々が盛んに行き来していました。
番号:132001
◆コースの概要/距離:19.9km、所要時間:300分、高低差:150m 
◆コースの起点/地名:広瀬藩邸跡、最寄駅:-、最寄のバス停:広瀬藩邸跡、最寄からの距離:1km
◆コースの終点/地名:清水分かれの道標、最寄駅:-、最寄のバス停:松江線 門生、最寄からの距離:0.1k◆コースの環境・設備/トイレ:有、休憩所:無、水・食料:有、ガイド等:有、看板・標識:無、安全対策:無、近隣の宿泊:有 
◆推奨季節/春・夏・秋 
◆その他/- 
◆コースに関する問い合わせ先/安来市 産業振興部商工観光課、電話番号:0854-23-3343


googleマップ


起点 広瀬藩邸跡(広瀬小学校)
広瀬藩は、1666年に松江藩主松平直政(なおまさ)の次男近栄(ちかよし)が創設し、藩主の上府はここを出発点とした。館の他に内濠、勢だまり、武器庫、米蔵など設けていたが、現在は石垣と土塁が残り「松平広瀬藩邸跡」の碑が建てられ、隣接する小学校には家老の鈴木庭園が残されている。
1.9km (-分)
1 月山富田城跡
月山全体を利用して築城された城郭で、1度も落城しなかった難攻不落の要塞城。尼子氏はここを拠点に11ヵ国を支配した。主家への忠義を貫いた悲運の戦国武将山中鹿介の銅像や随所に残る石垣群が往時の面影を伝えている。1934年に国の史跡に指定され、2006年には「日本名城100選」にも選定。
0.6km (-分)
2 巌倉寺
真言宗の古刹で出雲観音霊場18番札所に数えられている。堀尾吉晴の墓と伝えられている大型の五輪塔がある。吉晴は月山富田城から松江へ拠点を移したが、遺言により巌倉寺境内に葬られた。また、本尊の木造聖観音像と脇侍帝釈天立像は国の重要文化財に指定。
1.1km (-分)
3 城安寺
月山の麓にあり藩政時代は広瀬藩の菩提寺だった寺。広瀬藩9代藩主松平直諒(なおあき)寄進の山門をのせた立派な石垣が印象的で、みどころは本尊脇侍の「多聞天」と「広目天」でともに国の重要文化財に指定。
0.4km (-分)
4 広瀬絣センター
下町広瀬に江戸時代から伝わる絣の伝承施設。藍染や機織作業の見学ができる。特産品の販売コーナーもある。隣接地には市立歴史資料館がある。
2.4km (-分)
5 さぎの湯温泉
白鷺がこの地に舞い降りて、湧き出していた湯で足の傷を癒やしたという伝承からこの名がついたと伝わる。多量のラジウムを含有している薬効の高い温泉で、尼子氏全盛の頃には御殿湯として栄えた。温泉街にある足立美術館の日本庭園や近代日本画のコレクションは有名。また、隣接地には日本最大の民謡の殿堂安来節演芸館もある。
5km (-分)
6 鍵尾峠の塞の神
鍵尾峠には塞の神が祀られているが、ここは広瀬藩領と松江藩領の境であった。広瀬藩主は江戸への行き帰りにここで広瀬藩や村々の役人たちの送迎を受けたという。
1.2km (-分)
7 折坂の一本松跡
吉田川の左岸堤防には、尼子と毛利の戦いで亡くなった人を葬ったところだといわれている「折坂の一本松」跡がある。
1.3km (-分)
8 能義平野のハクチョウ
たたら製鉄の影響で形成された能義平野には、毎年11-3月、千数百羽ものコハクチョウが飛来し、落ち穂を啄ばんでいる。島根県は越冬地の南限となっている。
1.5km (-分)
9 雲樹寺
1322年孤峰覚明によって創建された禅寺で、出雲地方では最古の禅寺の1つ。後醍醐天皇の勅願所であり、日本最古と伝わる朝鮮鐘や格式の高い四脚門など多数の国指定重要文化財を有している。
1.3km (-分)
10 清水分かれの道標
街道より分かれて、清水寺の方向を参拝者に教える道標で、巡礼に訪れる人びとの道しるべとなっていた。

1km (-分)
11 清水寺
瑞光山清水寺は出雲巡礼21番の札所です。地元では「清水さん」と親しまれている。天台宗の古刹で、山陰屈指の天台密教の霊場となり、最盛期には伽藍48坊があったと言われている。
1.3km (-分)
12 名木桜と道標
石の地蔵が立っていて、大きな桜の古木の根に包まれた石の道標があり「右きよみず・左ひろせ・南無阿弥陀仏・宝暦□□」と刻まれている。
1km (-分)
終点 門生(かど)の六地蔵
六地蔵のひとつに寛延2年(1749)の年号を認めることがでる。ここにも力士の墓があり、碇綱(いかりづな)久之助と刻まれ、文化4年(1807)という年号が刻まれている。