「新日本歩く道紀行100選シリーズ」を通年で歩く人たちのクラブ「歩きんぐくらぶ」



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【龍孫の郷】肥前多久・聖学華開き文教の風薫る城下散歩道 

多久市には、国内の三大孔子廟の一つ「多久聖廟」があります。旧道伊万里往還跡の細道から多久宿(町人町)入口の椋ノ瀬橋を渡り多久城下へと入ります。近世の城下古地図に残る道を歩き、多久領出身の人物の碑、中世山城梶峯城の遺構の一部、多久城下町の構造を示す場所などを巡ります。県内でも有数の桜・紅葉の名所を通り、多久聖廟を訪れます。戦国の九州を駆け抜け、やがて表舞台からは消えた龍造寺氏が、怨嗟を越え文教の道へと歩んだ歴史が多久聖廟とともに多久城下にあります。聖廟参詣とあわせて歴史を堪能してください。
番号:141005
◆コースの概要/距離:7.67km、所要時間:117分、高低差:47m ◆コースの起点/地名:旧伊万里往還多久宿前、最寄駅:JR唐津線 多久駅、最寄のバス停:-、最寄からの距離:2.9km ◆コースの終点/地名:多久橋、最寄駅:JR唐津線 多久駅、最寄のバス停:-、最寄からの距離:3km ◆コースの環境・設備/トイレ:有、休憩所:有、水・食料:有、ガイド等:有、看板・標識:有、安全対策:有、近隣の宿泊:有 ◆推奨季節/春・秋 ◆その他/- ◆コースに関する問い合わせ先/多久市 商工観光課商工観光係、電話番号:0952-75-2117





起点 肥前伊万里往還(おうかん)多久宿(しゅく)前
県道脇の田園の細道は多久宿手前の伊万里往還の名残。長崎街道整備以前の肥前多久領は西域への分岐点だった。多久領内から唐津に向かう唐津往還と、伊万里へ向かう伊万里往還に分かれ、街道整備後もこの道は重用された。
0.28km (4分)
1 多久城下町多久宿(町人町)
牛津(多久)川に架かる椋(むく)ノ瀬橋を渡り多久城下に入る。多久城下の古地図では町人町(多久宿)にあたる。幕末肥前の儒学者草場佩川(はいせん)の生地や高松神社、美智子皇后にゆかりの副島家住宅(母方御祖父生家)がある。
1km (15分)
2 外小路光明山専称寺(せんしょうじ)
外小路(そとこうじ)通りから専称寺に至る。平安末創建、鎌倉期当地に移る。中世の北部九州で権勢を誇った太宰少弐氏末期の13代少弐政資と14代資元が大内氏に追われ当寺で自害。今に父子の墓所と核(さね)割れ梅伝説をのこす。
0.35km (5分)
3 西の原稗田(ひえだ)小路
外小路を一旦戻り、稗田小路に進む。明治元年創業多久まんじゅうの老舗・秀島天徳堂が入口にある。普応山万福寺に名工詫田(たくた)の番匠作という聖徳太子像がある。
0.37km (6分)
4 西の原どんだ路(北小路)
棋(まき)の生垣が並ぶ細道は、明治の炭鉱王高取伊好(これよし)の父の雅号にちなみ嫰垞(どんだ)路と呼ばれる。高取の生家跡、天徳天神社などがあるほか、多久城下の東の堀、唐堀川に対する西の堀が埋没した地形を残している。
1.04km (16分)
5 西ノ原大明神
西ノ原大明神は7代領主多久茂尭(しげたか)の娘、林(りん)姫を供養し創建(1837)された。林姫の悲恋と非業の死にまつわる伝説がのこり、安産の神として信仰を集める。
1km (15分)
6 西渓(せいけい)公園
炭鉱王高取翁が大正9年(1920)に武家屋敷跡を買い取り整備した名園。西渓とは伊好の雅号。園内に公会堂(現寒鶯亭)があり、旧図書館跡は現在郷土資料館になっている。
0.31km (5分)
7 梶峯(かじみね)城跡
鎌倉期前多久氏の築城と伝え、戦国末に肥前の大名龍造寺氏の手により改築された中世山城跡。多久領祖龍造寺長信(ながのぶ)居城期の遺構や初期の館(たち)跡がのこる。
0.25km (4分)
8 多久神社(梶峯社)
最後の多久領主11代茂族(しげつぐ)が、多久家先祖の龍造寺家兼・長信・安順(長信の子多久家初代)を祭祀して梶峯古城の麓、天理(長信)屋敷跡に創建した。龍造寺氏家紋の十二日足紋を彫った手水鉢などがある。
0.16km (2分)
9 多久(若宮)ハ幡宮
戦国期、龍造寺氏に追放された前多久氏の初代にあたる多久太郎宗直の創建と伝える。鶴岡八幡宮の若宮ハ幡を勧請。神殿は佐賀県指定重要文化財。龍造寺長信の神殿再興以来多久領主に維持される。境内の三本杉は樹齢800年。
0.42km (6分)
10 東の原内小路・御屋形(おやかた)
元和の城割りで梶峯城は廃城となり、藩政期多久領の政庁として内小路の東に領主の館が置かれた。御屋形は俗称。内小路は城下の主通りだが、現在は学校敷地で寸断される。付近に古地図を転写した陶板を設置する休憩所がある。
0.3km (4分)
11 三年山遺跡
昭和35年、明治大学が九州で初めて旧石器時代の遺跡として学術調査を行った学史的遺跡。市南部の鬼ノ鼻山は安山岩(通称サヌカイト)が原産し、狩猟の道具石槍など旧石器・縄文時代の石器の原料となった。
0.33km (5分)
12 東原庠舎跡(とうげんしょうしゃあと)
4代茂文は子弟教育の重要性を説き、多久聖廟創建前(1699)に邑校(学問所)東原庠舎を創設した。聖廟参道入りロの広揚が跡地。初代教授に医学・朱子学を学んだ河浪自安(じあん)が任じ武士子弟の教育が始まり、後年は町民や農民にも門戸を開いた。幕末明治期に活躍する先駆者を多く生んだ。
0.18km (3分)
13 多久聖廟・釈菜(せきさい)公益財団法人孔子の里
4代領主多久茂文(しげふみ)が宝永5年(1708)に儒学の祖孔子を祀る多久聖廟を創建し、孔子と四配の像を安置した。国内の3大孔子廟の一つに数えられ、そのうち最も壮麗といわれる。国指定史跡及び重要文化財。春秋年2回の聖廟の祭り釈菜(せきさい)は県指定重要無形民俗文化財で、創建300年以上継承し古式に則る祭儀は国内でも珍しい。
0.5km (8分)
14 杉尾山聖光寺(しょうこうじ)朋来庵(物産館)
龍造寺長信によって梶峯城の鬼門に創建された真言宗寺院。墓地に東原庠舎の初代教授河浪自安と、その子で二代教授となった河浪質斎(しっさい)父子の墓がある。奥の黒髪権現は、多久の武芸者が篭り武芸を編み出したと伝える。
0.63km (10分)
15 東の原聖堂小路(せいどうこうじ)
唐堀(からほり)川の東側の地域は東原庠舎教諭陣、また文化芸術に通じた人が多く住んだ地域だった。聖堂とは聖廟の別名で通りは聖堂小路と呼ばれた。各家の棋の生垣が並ぶさまは往時の風情を伝えている。筑紫筝(つくしごと)の創始者諸田賢順(けんじゅん)の住まい跡地もある。
0.38km (6分)
16 外小路唐堀川
唐堀の名は殼堀からで、御屋形を区画する外郭線のため維持される。川は林姫哀話の舞台の一つ。多久領の地誌『丹邱邑誌(たんきゅうゆうし)』著者深江順房(よりふさ)の住まい跡地や、門構え草葺きの武家屋敷(個人宅)がのこる。
0.17km (3分)
終点 多久橋
再び牛津(多久)川を渡り多久城下を後にする。